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魂の法則 その⑱ 怖れ

魂の法則 その⑱ 怖れ

怖れを増幅することで支配する!
人間を支配する常套手段である?!
又、
怖れは進化を停滞させる!
まあ、死んでも生きている・・・魂の不死性を検証しよう!!

 

 かみ砕いて、内省の要点を観てきた。安心を得るには、内省しかない。立命に安心に依って立つ。怖れは見えないから、増幅するのだ。

 幽霊も見えないから、怖いのである。暗闇で、柳の小枝がそっと背中を撫でたら、誰でも怖い。しかし、勇気を持って振り返り、確認すればどうって事はないのである。

 闇の勢力、宇宙人、怖いと持って調べてみれば、何のことはない。我々と同じ人間であった。少なくとも、魂を持った存在であった。と言うことが分かれば、怖くはない。

 

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 と言うことで、調べ始めたら、ウソで固めて恐怖を創りだしている存在が、闇の勢力で、恐怖で支配しているに過ぎないことが分かる。同時に、彼らは何故支配しようとするのか、支配していないと全てを失うから、それが怖いのである。

 臆病なのは、彼らの方である。翻って、宇宙人は、我々もその一人であるが、少なくとも、何らかの援助を思考して接近する高度に発達した先輩格のエイリアン(異星人)は、我々を怖がらせないために身を隠すのである。

 それに得心すれば、何も怖いものはないのだ。怖がっていれば、エイリアンと接近遭遇も難しいだろう。それは、友を避けて、引きこもりしている鬱状態の自分自身をかいま見るようである

 そういう状態を脱するためには、小さな勇気が必要だ。しばらく、日光浴をして、一度なりぐっすり眠れば、一歩を踏み出すことが出来よう。そして、外に出て自分を晒してみれば、同じ、他も人間に違いないと感じる。

 欠点多き人間の群れ、その中の一人が自分である。そう思って生きることだ。完全であるものなど居ないし、永遠になることは出来ない。だから、永遠の進化があるのである。

 永遠の進化のために、魂は不死である。これ程、安心できる要素が他にあろうか。いつか又、出来る。何度でも出来る。これ程の安心立命はない。

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 内省することは、自らを探求することである。真実の追究は、ウソを見破ることである。真理は、汝を安らかにする。これは至言である。

 

 かくて、ささやかなブログの出発点も又然りであった。


 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。


【本文転載その⑱開始】

怖れ

 怖れとは、懸念・動揺・不安の感情であり、自分や自分が愛する者への危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである場合と、想像上のものである場合がある。

 怖 れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感じ、大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしないかといつも迷う。し かも怖れは怖れを呼ぶ。つまり、怖れは頭を過度に刺激して、現実の状況を、空想上の脅威が出現する架空の状況に創り変えてしまう。しかも、それを本物だと 信じてしまい、現実の脅威だけではなく想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。

 怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況を予め想定して、その全てから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。

 恐怖とパニックは、強烈で鋭い怖れの感覚で、非常にトラウマとなり易い。 

 怖れは、自分が在るがままに振舞う妨げとなるので、霊的進化に最も有害な感情の一つである。進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れを乗り越えられなければ、長期にわたって成長が滞ってしまうことがあり得る。

*でも、全ての怖れが同じだとは思わないのですが。

 もちろん違う。だが一般的に、怖れは魂を抑圧して、気持ちに従って行動できなくさせ、感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえある。そのため、停滞してしまうのだ。

*しかし、正確には何を怖れているのですか。

 最も一般的な怖れは、自分への他者の否定的な反応をこわがるものだ。この定義から派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解してもらえない怖れ、拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神的暴力)への怖れ、孤独になる怖れなどがある。

 と ころで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、在るがままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。そして、これに負けてしまうと、他者 が望む自分らしくない振舞いをしてしまう。他者とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・伴侶など)のように、少なくとも愛情を 期待できる人のことだが、全般には、どんな人間関係にも当てはまる。この怖れは、家族内外を問わず、こどもが肉体的・精神的な暴力や虐待の対象となった幼 児期に由来することが多い。

 前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なものへの怖れ、死への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。

 未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は、知らないものについて、多大な脅威や危険を想像してしまうものなのだ。実際のところ、死の恐怖というものは未知への怖れであり、死後に起こり得る未知なるものへの怖れであるか、無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。

 まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、他のものはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。それは、自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、自分が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。

 我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがあることや、自分の災いのほとんどが自我のせいだということがなかなか納得できないために、欠点を認識すれば余計に苦しむに違いないという誤った思い込みをしているのだ。気づきは、我欲の一形態に過ぎない「自己愛」を苦しませはするが、幸せになろうとして我欲からの解放を望んでいる魂を痛めることはない。

 エ ゴから解放されるためには、先ず自分自身にエゴがあることを認めて、次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。認めるのを怖れてはならない。 我欲は全員に存在していて、それからの脱却の過程のどの地点にいるかが違うだけなのだ。だが、自分自身を知ることを怖れて長期にわたって我欲を覆い隠して しまうと、我々は停滞してしまい、ずっと苦しむことになるのだ。

 同様に、我々は、愛情・感受性・謙虚さ・優しさ・同情・博愛など、自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。実際にそうすることで、傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。そしてそこから、自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれるのだ。

 しかしそれにも関わらず、この怖れに打ち勝ち、自分自身になって、愛情深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなるので、外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。

 死 に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。死が終わりで、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。自分を深く見つめる怖れを 失えば、心の奥底で「死は存在しない! 君は不死身だ!」と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。その時に、存在しなくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は、消えるだろう。

*怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか。

 す でに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分を在るがままに表現するのを止めてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してしまうことだ。人は自分 自身でいなければ、自由意志が囚われているので、霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされる。恐れに支配されるのだ。そして、 失敗すると思い込むので、霊性進化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。

 怖れとは、地球の権力者たちが、人類を操り、霊的に停滞した状態に保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、挑戦を止めさせるのだ。

 それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性・愛情・兄弟愛が目覚めて彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権力を奪われるのが怖いのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 例 えば、人類全体の友愛に賛同する全ての運動に対する恐れを作り出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して、恐怖体制を敷く。全人類のための 連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治・経済体制を導入すれば、その後で混乱・無秩序・騒動や経済崩壊が起こるだろうと脅かして、恐れを生み出す。彼ら は、自由は奔放となり、自由思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習・堕落・不道徳をもたらすと予告する。

 地 球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠はどれも隠蔽し、他の 世界の生物と接触することの危険性を映画を通して助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィルス)をしていて、体内に入り込んだり、 人類を滅亡させる悪意を持っているのだと思わせようとする。

 人間 が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上することなのだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。そのため、死後の生の存在を示す ものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃げ込む。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信したりすることの恐ろしさを、映画を介し て助長する。その中では、生きている人間の魂を支配して苦しめる、幽霊・悪魔・血に飢えた吸血鬼やゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をど れもおぞましく描いているのである。

 それに一役買っているのが、 恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによって、全ての人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わる ようにするのだ。全映画の90%は、テロリスト・連続殺人犯・レイプ犯・麻薬密売人・宇宙からの侵略者・ゾンビ・様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な 存在に姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっともっと沢山 の恐れが外部から加わるようにする。

*怖れはどう克服したらいいでしょう。

 自覚と勇気を持つのだ。先ず、自分が怖れているということと、何を怖れているかに気づくのだ。

 深 く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことが分かるだろう。現実の脅威に根 ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないようにすれば乗り越えられる。

 「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思うだろう」と自問してみるのだ。それが、選択されるべき正しい決断なのだ。試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。

 怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩するのを感じ、怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。そしていつの日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。今ならはっきり分かるぞ」と言えるようになるのだ。

*自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがありますか。

 自分自身を、美徳や欠点も含めて、在るがままに見るのは何も悪いことではない。自分を在るがままに受け容れるのだ。

 改 善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しないこと。自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、最初は苦痛を伴い不快かも しれないが、そうする価値はある。それが霊的な成長の道における最初の一歩になり、成長するには、我欲を排除することと同様に、感情を発達させることが不 可欠であるからだ。

 自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、そうする時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。悪い事を恐れるだけで沢山なのだから、その上、良い事を恐れるのは止めとしよう。

*同じ質問をしたかもしれないのですが、我欲とその具現形態である「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問をしたいのですが。

 質問したまえ。

*一般的に、自我とその形態を克服するにはどうすればいいのですか。

 最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。これと同じように、虚栄心・自尊心・尊大に打ち勝つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現する我欲を識別することで、自分の我欲を認識することだ。

 そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、どう表面化するのかを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだ。

*それは難しく思えます。

 それほど難しくはない。我欲自体が難しく見せているのだ。

 他 者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認めることはなぜこんなに大変なのだろうか?(隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目 の中の丸太に気づかない)。我々がここにいるのは、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後は簡単だ。

*我欲自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識できるのですか。

 有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であるかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者とを置き換えるのだ。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか? それとも、利己的に動いただろうか?

 あ る言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、自分の意見が変わらなければ、客観性に近いのだ。しかし同じ言動であっても、自分がした時には容認し て、他者がした場合に告発するのであれば、それは不公平なのであって、自我に翻弄されているのだ。それゆえ、自分の欠点に気づくためには、他者を分析する 場合と同じ客観性を持つ必要がある。

*そしてどうするのですか。

 次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識しても、それが出現しなくなる訳ではない。自我があることを認識して受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに屈しないことだ。

 別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知っているけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするようにするぞ」と言うのだ。

 態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動や行為を修正できるようになる。利己的な態度は、自分にとっても他者にとっても有害なのだ。

*どういう意味で自分に有害なのですか。

 愛を感じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では最も素晴らしいもので、我々を真に幸せにしてくれるものだ。

*態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか。

 行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされたら、どんな反応をするだろうか? 僕だったら、その人にどうして欲しいだろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。

 こ う推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたのだ。もちろん、簡単ではない。改善しようという揺ぎない紀律と意志が必要とされる。しかし 辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちになり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける励みとなる。

*「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか。

 それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持っており、自分にもそれがあるのだと認めること。それらが、我欲が顕現したもの、または、我欲と愛との内面の葛藤が表面化したものだと認めるのだ。

 次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす方法を見い出すこと。

*内面の意識的な改革とはどういうことですか。

 それは、自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的(愛における進歩と我欲の排除)が明確で、欠点がどういうものでどのように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。

 完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができるのだ。

 一 日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、その日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程度愛に基づいて行動 し、どれほど我欲によって行動したのか、また、他の人達はどれほど愛または我欲によって行動したのかを、内省してみるのだ。こうして正直に考えてみれば、 進歩に必要となる答えを見い出すことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなるのだ。

 他 者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の利己的な態度に気づけ ば、流されてしまったと分かるが、自覚することができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛ある気持ちで行動しよう、と固く決意する のだ。

 こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違えるような自分を見い出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るのだ。

*でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか。

 それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公平になり易く、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさにして、何の配慮もしないものだ。

 もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めている。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いことだと信じている。

 し かし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るためでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して我々自身が改善するた めと、他者も改善できるように助けるためである。ここでは、現実を、誇張も隠蔽もせずに、在るがままに見ようとしているのだ。

 実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを排除することが進化の工程の一環となっている。それに、初めに認識することなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?

*我欲に触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を許さないといけないのだと思っていました!

 許すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つまり、原因となる場面ごとの我欲についても掘り下げる必要がある。

例えば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動しているのだ。

 霊性進化の工程や克服すべき我欲の段階と、我欲がそれぞれの段階でどのように顕現するのかが理解できなければ、羨望・嘲笑・批判・中傷などや、もっと酷い利己的な態度を許すことはとても難しいだろう。

*それでは、自分自身が我欲のどの段階にいるのかを知ることは可能ですか。つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知ることはできるのでしょうか。

 ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り組むべき霊的な課題が何であるかが分かるだろう。

 ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つかの指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解することはかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいるのだ。

 もう話したことだが、一人ひとりにはガイド役がついていて、助けて欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように手を貸してくれるのだ。また、肉体を持った人の中にも、その内なる能力によって、君たちに手を差し伸べられる人がいる。

 し かしこれも全て、各人の意志による。我欲に捕らわれていて前進したがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も受け入れようとはしな い。そのため、霊界から与えられる助言にも、もっと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、君たちの世界では、大半の人がその状況 にいるのだ。

 自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取 ろうとも耳栓を除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれる人を聞こうともしな い。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む主要因たる我欲を放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援を受けるつもりも ないのだ。【本文転載その終了→その⑲に続く】


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